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先見開明の人

井上 成美(1889.12.9〜1937.12.15) 中島信吾著

 海軍大将、井上成美(いのうえしげよし)は、第二次世界大戦が終結して二十六 日目の1945(昭和20)年九月十日、米内光政海軍大臣から訓令を受けた。 このとき五十五歳。全国に散らばった艦隊関係の終戦事務をきちんとやくこと、 という意味だった。陸軍の将軍たちが後を放棄し、続々と自決しているときだった。 1906(明治39)年、十六歳で仙台第二中学校から海軍兵学校に入校以来、 三十九年間の長い海軍生活が、いま終わろうとしていた。
 井上は1889(明治22)年十二月九日、大日本帝国憲法発布の年に仙台に 生まれた。父は幕府の直参、母は伊達一門で、維新とともに家は落ちぶれ、生活 は大変だったが、家の格はあくまでも高かった。成美は十三人兄弟全部が男で、 下から二番目だった。
 成美の名は「論語」が出典だ。「子曰く、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。 小人はこれに反す。」すなわち、君子は他人の善行についてはそれが成就するよう に援助するが、非行については援助しない。小人はこの逆である、との趣旨である。
 この名の由来をよく父から教えられ、そういう人間になれと諭されて育った。 彼はこの名を生涯誇りにして生きた。
 小学校は宮城県尋常師範学校、現在宮城教育大学の付属だ。家の近くには市立で 無月謝の学校がすでにあったが、成美の兄弟はみな、二キロ離れた師範の付属に 通った。貧しい家計の中から五十銭の月謝を出すのは苦しかったが「付属の方が 先生がいい」と父が選んだそうだ。
 それから県立第一中学校分校に入り、四年に仙台第二中学校が発足した。成績 は一番だった。
 彼はこの年十月三十一日、五年の在学中に海軍兵学校合格が決まり、第二中学校 を中退した。
 成美は海軍兵学校を志望すると決めた日から、甘いものを一切口にしていない。 虫歯が一本あっても不合格になると聞いたからである。
 海軍兵学校の訓練は熾烈を極め、鉄拳制裁も盛んに行われた。なにしろ忙しかった。 しかし根本は個人をよく尊重した。
 当時の兵学校は三年制で、はじめは苦手だった英語を、翌年の一学期には努力して 一番になっている。
 彼のいいところは、何かおかしいことがあると徹底的に原因を追及して正すこと だった。この性格は死ぬまで変わることがなかった。清廉潔白だった。
 兵学校を卒業すると同時に即日海軍少尉候補生を命じられた。
 彼らが乗り組んだ連合艦隊、一等巡洋艦「阿蘇」は日露戦争の拿捕船、二等 巡洋艦「宗谷」も同じく拿捕船の二艦で構成されていた。兵学校のある江田島の 湾内を出港し、近海航海の途についた。前日兵学校を卒業したばかりの成美らに とって、初めての本格的艦上生活と海上訓練の始まりだった。
 四十日の初航海を終え、一端寄港してこんどは遠洋航海である。この最先任者が 成美だった。途中、教科目試験の後、成績を決める会議があった。実務の成績が もっとも成績のいい井上を百点とし、ほかの生徒を比較するという方式が取られた ものである。約八か月の長旅であった。以来、彼は同期生のトップとして海軍 生活を送ることになる。
 少尉となった井上は艦隊「鞍馬」の英国回航などを勤めた。1915(大正4) 年に海軍大尉。翌年正月過ぎに結婚式をあげた。
 さかんにイギリス、スイス、フランス、イタリア、ベルリンなどを巡った。
 「海外ではスパイまがいの活動はするな。もっと次元の高いことをやれ。その 国の歴史を知り、世界に通じることだ」と言う先輩の言葉をまもり、ドイツでは ドイツ語を、パリではフランス語の習得に努めている。ドイツ在勤時代はドイツ 語で話す夢を見たという。
 大正末期には海軍関係の各種委員会委員を相次いで命ぜられた。海軍中佐に なっていた。
 1932(昭和7)年十一月一日、海軍大佐のときに補海軍省軍務局一課長を 任じられた。ここは海軍軍政の総元締め的存在だが、中でも局の筆頭課長である 一課長は、その扇の要に位置するものだった。
 海軍省すなわち軍政と、軍命すなわち統帥という二つの軍事大権は、大日本 帝国憲法によって定められた。編成大権と統帥大権は密接な関係があった。
 兵力の準備に置く軍政となり、その使用に焦点をあてると統帥になる。事柄 によっては区分が不可能になる。
 しかも、この二つの軍事大権について天皇を補佐しかつ責任を負うのは、 海軍大臣か軍令(統帥)機関の長かに関しては、国家として明確な根拠がなかった。
 海軍省は建軍以来、大臣が軍政とともに軍令を掌握していた。これによって よく部内の統制を保ち、外部に対しても、海軍大臣が海軍の総意を代表する立場 を堅持していたのである。
 軍令部には、海軍省から権限を移し、せめて陸軍の参謀本部なみにしたいという 野望があった。そこへ同年二月に軍令部次長で来た高橋三吉が、直ちに軍令部 条例の改定を決意した。これはときの軍令部長、伏見宮博恭王から「私の在職中 でなければ恐らく出来まい、是非やれ」との言葉があったからである。
 お上のお墨付きだからやりたい放題。小手調べにたちまち海軍の外堀を埋めてし まった。あとは「海軍軍令部条例」および「省部事務互渉規程」の改定である。
 ところがそこへ井上が出てきた。一読あまりに重大なため、井上は誰にも任せず、 一課長在任中に時を稼いで握り潰そうと決心した。悪者役を買ってでたのだ。
 軍令部の交渉相手は南雲忠一大佐だった。反対する井上に「貴様のこの机、 ひっくり返してやるぞ」と凄むが「うんやれよ」とひるまない。
 こんなやりとりが何度もあって一ヶ月。南雲が「短刀で脇腹をざくっとやれば それっきりだ」といった。井上が「そんな脅しにへこたれるようで、いまの私の 職務がつとまるか!」
 その上で、かねて用意の遺書を見せた。
 「俺を殺しても、俺の精神はまげられないぞ」
 南雲ではらちがあかないので、高橋三吉次長はあれこれやり、次々に屈して、 ついには反対が井上だけという事態になった。井上は辞表覚悟で妻子にいった。 すると娘がいった。
 「お父様はけんかが早いからね」
 しかし秋になって「海軍軍令部条例」と「省部事務互渉規程」の改定案を 天皇陛下に見せたところ「一つ運用を誤れば、政府の所管である予算や人事に、 軍令部が過度に介入する懸念がある」と下げ渡された。井上が危惧したことこそ そうだったのであった。
 1937(昭和12)年二月、前年二・二六事件後に組閣した広田弘毅内閣が 倒れ、陸軍大将林銑十郎を首班とする内閣が成立し、海軍大臣だった山本五十六 中将の強い要望で、当時連合艦隊司令長官に就任したばかりの米内光政大将が 起用された。
 この七月、宣戦布告をしない第二次上海事変が起き、支那事変へと拡大した。 これより四年前にドイツはヒットラー政権を誕生させ、日本に遅れて国際連盟 を脱退した。昭和十一年十一月には日独防共協定が調印された。翌年には日独伊 三国防共協定となった。
 米内は、間もなくやってきた定期人事異動で、軍務局長に井上成美を選んだ。 ここに米内、山本に井上が加わり「北国トリオ」がそろった。米内は盛岡出身、 山本が長岡出身、井上が仙台出身だからである。同時にそれは明治戊辰の際の 東軍、いわゆる賊軍の藩出身ということでもあった。米内が五十七歳、山本 五十二歳、井上四十八歳だった。
 井上は海軍少将に進んでいた。そこで「北国トリオ」はそろって日独伊 三国同盟締結に反対したのである。石油・鉄鉱などの重要原料を英米経済圏から 輸入しているのにそれに敵対する独伊と手を結ぶのは自殺行為だ。また自国の 存在に危険があるときのみ、必要な軍隊を「自動参戦義務」として負うなどは もってのほかではないか。現在の日米ガイドラインに通じるものがある。
 昭和十六年一月、海軍中将として五十一歳で航空本部長になった。日米開戦の 一年前だ。「日米もし戦わば」の仮定のもと、戦争の推移を予想したが、結果は すべて井上の予想通りに負けた。彼はこれまでとってきた大鑑巨砲主義を廃し、 海軍の空軍化を目指したのだが、はやり立つ陸軍に海軍も含め、もはや耳をかす 者はいなかった。
 翌年は第四艦隊司令長官、据え物斬りの真珠湾作戦や、相手に飛行機掩護のない ハワイマレー沖海戦、または三流植民地艦隊相手のジャワ沖海戦と違い、日米 機動部隊同士の初めての本格的戦闘珊瑚海戦で、互角以上の戦いの末、勝利して いる。
 教育面では昭和十七年から海軍兵学校の校長をしている。
 時代は軍事一色。英語までが敵性語として陰を潜めていた。英語を敵性語とした 前の校長とは正反対で、ある教官が「敵性語を入学試験に使うのはどうか」と いったところ「外国語もわからないで戦争が勝てるか」と一喝した。
 卒業後すぐに役立つような丁稚教育を排し、将来大木に育つ学士教育を実行した。 戦後、こんなときを予測したかと聞いたところ「当然だ」という答えが返ってきた。
 教育の成果は二十年後に現れた。最高裁判所判事、経団連会長、多数の国会議員、 一部上場社長は数知れずである。
 昭和十九年八月、井上が海軍次官就任直後直ちにあらゆる情勢を分析して出た 結論は「戦争終結」であった。すでにサイパンは陥落し、米軍の空襲は日毎に 激化していく中で、狂った陸軍は本土上陸作戦を考え一億玉砕を叫ぶ始末であった。
 この陸軍の方針に反対したのは、当時の米内光政首相と井上であるが、その和平 へのスピード、スタンスには大きな差があった。
 「一日和平が遅れれば何千万人の国民の命が失われていく」あくまで民衆の立場 に立つ井上と、天皇制の護持を第一とする米内では大きな溝が広がり、ついに 次官を解任されてしまった。
 ドイツの敗北で和平への大勢はすでに決しながら、あたら時を空しく過ごしたばか りに、広島、長崎の原爆投下に会い、ソ連の侵入をも許す結果となった。
 「先見開明の人」井上の無念はいかばかりであったろうか。


略歴(1889年〜1975年)

1889(明治22)年12月9日、仙台生まれ。
仙台二中七回。
海軍兵学校卒。
海軍省事務局長。
海軍航空本部長。
第四艦隊司令長官。
海軍兵学校長。
海軍次官。
海軍大将。
1975(昭和50)年12月15日横須賀市で没、八十六歳。



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