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花とヒューマニズム

大石 武一(1909.6.19〜2003.10.19) 中島信吾著

 尾瀬を一度でも訪れたことがある人は、尾瀬の名を聞くつど二度と忘れられない 悠久の雄大さに目を細め、脳裏に記憶に深く刻まれた素敵な景色を思い出すだろう。 あの長い木道、いっぱいの野草、飛び交う昆虫、深い森林、青い空、白い雲、緑の 湖、燧獄、長蔵小屋。「夏が来れば思い出す」という歌い出しの歌は国民的に広く 歌われ、日本の象徴になっている。
 国民が世界に誇る壮大な尾瀬の自然が1971(昭和46)年、周辺三県から 伸びようとしている道路のために、まさに死のうとしていた。これを同年に生まれた ばかりだった行政的には孤立無援の環境庁が、あとあとまできちんと守り抜こうと 決め、困難な諸事を見事に片付けて実行したのである。おかげで尾瀬は死なずに すんだ。いまある尾瀬は当時環境庁長官に就任して間もなかった、六十二歳の 大石武一があったからだった。
 大石は政治家の父・大石倫治の長男に生まれ、父の勧めで始めは医者になった。 しかし、東北帝国大学医学部第二内科の助教授から国立仙台病院の内科部長を 勤めながら、父の遺言で政治の世界を選び直した。彼は硬骨漢でやさしい父を こよなく尊敬し、その志を忠実に次いだ。
 大石家には、擦り切れた父からの一通の書簡が家宝になっている。消印は 1940(昭和15)年十二月二十日。昭和十五年といえば、第二次世界大戦勃発 の一年前。破滅に向かって突き進んだ時代である。軍閥勢力は、戦争政策遂行に 邪魔な政党に片っ端から圧力をかけ、次々に解消へ追い込もうとしていた。 軍閥の後押しはすさまじく、この年の八月には政党政治がことごとく死滅した。 全議員は四百三十五人いたが、最後まで反対したのは尾崎行雄と大石倫治の二人 だけだった。父はそれほど孤立しながらも、信念は曲げなかった。
 家宝はこの時の決心を、父が筆にしたものである。「全く生きた屍を議会の 一隅に運び後生に斯云ふ議員のあった事を示すより外はない。お前に丈け心境の 一端を書き送る 能く玩味して呉れ」(原文のまま)とあった。大石も父のほと ばしる政党政治への情熱に打たれ、涙ながらに返事を書いた。父はのちに戦後 第一回の総選挙で見事に返り咲いた。軍人政治に抵抗した父は、公職追放令に ひっかることもなかった。この父が1948(昭和23)年春に「武一、お前は 立派な政治家になって、私のやり残した仕事を仕上げてくれ」tじょ遺言し、 二時間後に死んだ。
 大石ははじめ、政治家になるつもりはなかったし、医者になるつもりもなかった。 子供のころは、とても動物や植物が好きだった。緑豊かな杜の都に生まれ、美しい 広瀬川、郊外の国見峠、亀岡、天主台、八木山などが連なった大自然に恵まれた せいがあろう。
 大石が生まれたのは仙台市元常盤町一番地。当時は広瀬川の崖っぷちにあった 高台で、いまの仙台市民会館が建っているあたりである。彼にとって仙台の町は、 野草採集や小さな動物を追った少年時代の思い出と、相次いで他界した妹や弟たち との悲しい別離の思い出が交錯するところである。
 姉や弟妹は全部で八人。上二人が姉で、彼は三番目の長男だった。それが弟二人 と妹一人を相次いで失ってしまった。まだそういう時代だった。
 本人は宮城県男子師範付属小学校から県立仙台第二中学校へ進学し、二年から テニスに熱中した。自宅近くに旧制仙台第二高等学校のテニス部キャプテンが 引っ越して来たからだった。しかし旧制二高ではテニスから野球に変わった。 この野球部の合宿がハード過ぎて結核性の肋膜炎にかかった。治療のために留年 しなければならなかった。そしてその次の年には腹膜炎を患い、秋田で開業医を していた義兄のもとへ送られた。
 中学時代は授業でも物理は好きじゃなかったが、とくに動物や植物、天文学は 好きだった。「シリウス、カシオペア、アンドロメダなどに熱中し、野尻抱影が 好きだった。将来は天文学者になろうと思っていたんだよ」というほどだった。
 広瀬川でどぶ釣りをした。ガラス箱で川底をのぞいてアユをヤスで突いた。 当時はカッコウが町の真ん中で鳴き、青葉山ではホトトギスが降るように鳴いて いた。「私はとりわけ草花に愛情を抱いていた。家を引っ越すたびに花壇を作り、 フロックス、キショウブ、オダマキなどを移植した」
 二高一年の時にファーブルの「昆虫記」を読んだ。胴乱を肩に、仙台郊外を歩き 回り、野草を採取して押し花を作り、植物図鑑を調べて学名を記入した。
 1975(昭和10)年、東北帝国大学で植物学を専攻しようと思い、父に相談 した。しばらく考えた父は、長男であること、家を背負わねばならぬことなどを 考え、医学部ではどうかといった。そこで父の勧め通り医師になることを決めた。 終戦の年には内科の助手になっていた。周囲一面が焼け野原だった。
 戦後の1945(昭和23)年に、父の意志を継いで政治家として初当選してから 二十三年目大石は第三次佐藤内閣のもとでの内閣改造に際し、進んで環境庁長官 になった。実質的には初代だが、環境庁ができて四日間は総理府総務長官をしていた 山中貞則が環境庁長官を兼務していた。大石の長官就任の瞬間に、尾瀬の命運が 定まったといえよう。
 日本中が環境破壊に苦しんでいた。大石はさっそく四日市公害に取り組みながら、 尾瀬の問題にも真正面から立ち向かうことになった。
 尾瀬は風前のともしびだった。1889(明治22)年八月、二十歳で尾瀬に こもり、長蔵小屋を建てて尾瀬の自然を守った平野長蔵はすでに亡く、子々孫々が 先祖の意志を継いで尾瀬の自然を守っていた。
 ある日、長蔵の孫にあたる平野長靖が、記者に連れられ自宅にやってきた。「 尾瀬にいま群馬、福島、新潟を結ぶ県道ができかかっています。こう工事は 三平峠の下の一ノ瀬まで来ています。この道が開通しますと都会からたくさんの 人がやってきて湿原は踏みにじられ、ゴミは捨てられ、尾瀬はめちゃめちゃに なります」。その姿に、自分も父の意志を継いで今日にいたっていることが重なった。
 さっそく現地を視察した。不可能とも思えた自然保護行政の実施ということで、 大石の車の後は新聞社やテレビのジープが何台も続いた。歩いて二時間、見渡す 限りの花の間を縫いながら、昼の弁当を食べようと草花の生えていない岩を探し まわり、やっと座れる岩を見つけた彼を見て、「大石は花にも詳しいしこんなに 大事にする。これはきっとやる」と記者たちが感動し、確信したそうである。 大石は当然のふるまいが、日本のジャーナリストを目覚めさせたのである。
 大石は佐藤総理大臣に「自然破壊がひどすぎます。私は国立公園の中を通る道路 を二、三本止めます」といってあった。佐藤は「思うとおりにやりたまえ」といった。 閣議では難航した。中でも当時通産大臣で、首相の席をねらっていた田中角栄の 反対は強硬だった。新聞は「大石長官は孤立状態」と書いた。三県もこぞって 反対した。
 大石は三県知事に、工事中の道路工事を中止するにあたり自分に自然保護について の信念を語り、具体策に次の案を示した。「三平峠から沼山峠までの分は公園計画を 廃止し、当然工事は認めない。又工事認可済みの分についても、岩清水で工事を ストップし、さらに自動車乗り入れはふもとに近い一ノ瀬までに限り、先は歩行者 専用にしてほしい」
 このあとの分については自動車乗り入れ禁止ルートはさらに延び、手前の大清水 から上が歩行者専用道路になっている。
 三県知事の反論は大変なものだったが、最後は根負けした。こうした幾多の難題 を辛抱強く片づけ、多くの世論の支持を受けて、道路は作られないことに決まった。 尾瀬は残った。
 その冬、尾瀬に命をかけた平野長蔵の孫、長靖が、心臓マヒをおこし、雪に埋もれ て死んだ。かつて大石のところにこの道を通さぬために尾瀬から東京まで陳情に 駆けつけた、情熱ある男だった。自分が父の遺志で政治に挺身しているように、 長靖もまた命を尾瀬に埋めたのである。大石は言葉も出なかった。もっとも 忘れがたい一人になった。
 尾瀬を象徴するナガバノモウセンゴケという食虫植物がある。和名「長葉ノ毛氈苔」。 日本では1898(明治31)年に北海道エトロフ島で日本人が発見、ついで尾瀬で も見つけた貴重な植物だ。標本を見た牧野富太郎が命名して発表した。これにより 一躍尾瀬が有名になったいきさつがある。このエピソードがまぼろしにならずに すんだ。
 尾瀬の道路建設ストップ以来、国民の自然に対する関心は日増しに強くなってきた。 そうしたところ1971(昭和46)年暮れ、宮内庁から翌春行われる恒例のカモ猟 への招待状が届いた。大石は出席しないと答えた。このせいかどうか、このカモ猟は 中止になった。
 琵琶湖にたくさんのカモがいる。それが乱獲により十分の一に減ってしまった。 ある日滋賀県知事が「県条例でカモを護りたいから協力してほしい」と陳情に来た。 大石は狂喜に近い感激を覚えていった。「あなたがその手続きを取られるなら、 私は一分間で許可します」
 自然の破壊は休みなく続く。富士のスバルラインは標高一千メータルを超える ところに作ったから、すばらしい富士の自然が台なしになった。各地の高台を ねらったスカイラインなどが、一千メートル以下ではメリットがないと沙汰止み になった。
 日米が日ソの渡り鳥条約にも活躍した。そのたびに外国へ飛んだ。外人記者が 水俣病について厳しい質問をした。大石はそのつど丹念に用意をした資料を提供し ながら誠心誠意答えた。
 ストックホルムで開催された1968(昭和43)年のピースフォーラムでは、 九十三歳のグスタフ・スェーデン国王の前で長い代表演説をした。世界へ向けての 決断だった。四面海に包まれた豊かな国土の歴史と急激な変化、工業化による 公害病、これに伴う対策。「人間環境の保全を人類至上の目標であると認識したこと に賛同し、われわれとわれわれの子孫のためにこれを強く支持します。とくに、 核兵器の実験による破壊から環境を守ろうとする大量破壊兵器の禁止を定める原則を 高く評価するものであります」。これを微に入り細にわたり述べた。経済優先から 人間尊重を訴えたのだ。
 各国のジャーナリストが「たいへん建設的で力強い演説だった。過去の過ちを反省 したのもよかったし、日本が、いま努力していることもよくわかった」と称賛された。 大石の半生は緑と軍縮を求めることに費やされたのだった。


略歴(1909年〜2003年)

1909年6月19日、仙台市生まれ。
仙台二中二十七回生、四修で旧二高、東北帝国大学医学部卒。 
医学博士。
目黒区三田在住。
元衆参両議院議員、馬事畜産会館館長、緑の地球防衛基金会長、
全国乗馬クラブ振興協会会長、医家芸術クラブ理事長。
2003年10月19日没



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