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超音波診断の創始者
和賀井敏夫 中島信吾著

 百余年前にX線を発見したW.K.レントゲンは、医学工学などに計り知れない 貢献を残した。しかし医療のX線診断には、造影撮影による副作用やX線の被爆 傷害などの問題がある。人間に無害な音波を使えないだろうか。
 そこで超音波診断研究を世界に先駆けて着手したのが和賀井敏夫である。
 和賀井は1924(大正13)年、宮城県石巻町に生まれ、1937(昭和12) 年四月、石巻尋常高等小学校尋常科から宮城県仙台第二中学校に、石巻からただ 一人合格した。この中学は少年の父親の母校でもあった。
 石巻から仙台は遠いので、米が袋での下宿生活が始まった。まだ小学校を出た ばかりの幼さで、見知らぬ土地を一人通うのである。クリクリ坊主にカーキ色の 制服制帽、軍靴、それにゲートルを巻くのだが、まだ足も幼いのでなかなか足に うまく巻きつかない。そのため遅刻しそうになったこともしばしばだった。 なにしろ校則が厳しく、学校では厳しい服装検査があり、緩んだゲートルを 巻きなおせと何度も叱られたものだった。通学路にあたる鹿子清水、中町、霊屋橋、 評定河原、花壇、西公園、中瀬橋などの素晴らしい景色やたたずまいが、そんな 彼を励ました。
 「終戦を境にがらっと変わりましたね。いまの中学生が髪を茶色にするなんて、 当時はまったく考えられないことでした」と和賀井。
 当時の中学校は5年制で、成績優秀なものは四年生から(旧制)高等学校に 入れた。「進学校はいまでもそうでしょうが、仙台二中でも成績第一でした。 それがいいかどうかは疑問ですが」
 和賀井は仙台二中卒業後、一年浪人して(旧制)第二高等学校理科に入った。 仙台二中は四年生の頃から希望進学校により組分けされた。一組は旧制高校志望。 彼は一組でも成績は下のほうだった。一組の生徒は成績が良く、四年から旧制二高 に入るのがいた。二組は陸士、海兵志望で、成績の上に体も鍛えられ、これら 軍学校に進学した者の中から戦死者もでた。四組は高等工業志望で、三組がその他 の志望だった。各組毎に独特の気風が見られた。
 旧制二高では名高い明善寮に入寮、戦時中ながら二高の自治自由の教育を謳歌した。 当時は市民でも軍服まがいの国民服が当たり前になっていた中で、二高生は和服、 袴姿で授業に出席、市中も闊歩したものである。このような風潮は、政府とくに 軍部の忌諱に触れ、軍部よりの批判も多かった。これに対し、「生徒諸子は 外出時には和服でも下駄でもかまわんが、たすきぐらいは持って出ろ。いざと なったら袴の裾をはしょって逃げろ」という名校長がいたものである。
 二高二年生で寮の総務委員になってからは、ますます激しくなった政府の締めつけ から、二高明善寮の自治の伝統を守るべく尽力した。「この二高の尚志の教育や 明善寮の寮生活の体験が、その後の人生にも研究生活にも大いに役だった」という。
 1945(昭和20)年、旧制二高繰上げ卒業後、新潟医科大学に進学した。 1949(昭和24)年、新潟医科大学を卒業した和賀井は東京での研究生活 第一歩を踏み出した。
 上京後、知人医師の紹介で、当時のインターン制度を神田駿河台の三楽病院で 行うことにした。当時の東京は戦後の復旧作業が始まったばかりで、下宿や アパートなどはまったくなかった。困ったあげく、旧制二高時代の友人の深川の 家に転がり込んだ。その友人も、東京大空襲で焼け出され、親戚の人たちのところ に間借りしていたのである。物資の乏しい時代にもかかわらず、家族の一員として 親切にされ楽しいインターン生活を送ることができた。その友人は、後に 石川島播磨重工業の役員を勤めた人で、彼との出会いが和賀井の超音波診断研究を するきっかけにもなったのである。
 翌1950(昭和25)年春、和賀井は憧れの伝統ある順天堂医学を学ぶべく、 順天堂医科大学外科に入局した。この年、これも旧制二高時代の友人で、 東北大学工学部出身の超音波測探の研究をしていた者と出会い、「超音波検査法を 人体にも応用できないか」と勧められ、これが文字通りの研究の発端となった。 しかし、日本ではまったく前例もない研究で、何から着手してよいか分からないで いたところに、前述の石川島重工の研究所に勤めていた友人から、「石川島工場の 検査室に、鉄道技研試作の超音波探傷器という機械がある。一度見にこないか」 と誘われた。
 さっそく行って、この超音波探傷器なる機械に初めてお目見えした。これは 金属材料の検査をするのが目的の機械で、金属片に当てると、装置のブラウン管の 上にかすかに複雑な波形があらわれた。「この波はつなぎ目で、この波が金属の 傷だ」という説明を聞いているだけだった。
 当時、和賀井は順天堂医科大学外科で、とくに脳外科に関心をもっていた。
 そのころの脳外科のいろいろの検査の中で、脳室の中に空気を入れてX線撮影 を行うと、脳室の形が写り、それからいろいろな脳の病気の診断を行う気脳写と いう検査法があった。和賀井もよくこの検査をやらされていた。しかし、この 検査は患者にとってはかなり苦しいものだった。どうにかして患者に苦痛のない 検査法はないかと考えていたところへの超音波探傷器との出会いであった。
 これが超音波診断法研究の最初に、脳の診断に取り組んだ理由でもあった。
 それにしても石川島工場の技師連中にしたところで人間の脳など見たこともない。 しかも金属を相手にする超音波探傷器と人間の体、特に脳を連想することなど全く 困難であった。和賀井の「脳をこの装置で検査できないだろうか」という難問は、 はるか遠くに思えた。
 それでも、1950(昭和25)年秋から、とにかく脳標本を使って、脳の内部 から果たして超音波の反射(エコー)が発生するものかどうかという、まったく の基礎から実験が始まった。当時は石川島工場の出入りでは、持ち込み品、 持ち出し品の検査が厳重だったが、工場の守衛が和賀井が持ち込んだものを見るや、 「脳みそですね」とあっさりいって、持ち込み伝票に「脳一個」と書き入れて くれた。その後も実験のためにひんぱんに脳を持って行ったが、そのたびに 「脳一個」。これはずいぶん助かった。それからあらゆる脳の標本を用い、失敗を 繰り返しながらも根気よく実験を重ねた。
 和賀井にとって石川島重工は、文字通り最初の超音波診断法研究が始められた 記念すべき工場であった。翌1951(昭和26)年秋、超音波探傷器開発の 日本無線株式会社の中島茂部長を紹介され、同時に超音波研究の権威の東北大学 電気通信研究所の菊池喜充教授とも出会い、これ以後は順天堂大学外科、東北大学、 日本無線の共同研究として、正式に実験研究が開始されたのであった。
 当時の超音波診断法開発の研究は、医学界でも順天堂大学内においてすら全く 認められなかったが、ある順天堂外科の先輩の先生だけが親切にもいろいろ援助 してくれた。当時超音波の医学応用として治療に利用することは行われており、 この研究がドイツで盛んであった。この外科の先輩の先生が戦時中からの多くの ドイツの文献を保管されていたので、ご自宅にお伺いして、超音波に関する論文を 片っ端からノートに書き写させてもらった。しかし和賀井が意図する超音波診断に ついての論文は一つもなかった。訳したドイツの論文は大学ノート十冊にも達した。
 ともかく辛抱強く他領域の関係者を訪ね、実験を重ねては超音波診断法の実現に 迫って行くのである。この根気のよさは和賀井のもつ最強の武器だった。
 工夫と創作、失敗の連続、その連綿たる作業の果てしない継続であった。今日の がんや胎児の診断、心臓のエコー検査として臨床に不可欠の診断法とされている 超音波診断法研究創始の頃の苦闘だった。この基礎研究の成果を和賀井は1952 (昭和27)年春、「超音波診断研究(第一報)」として日本音響学会で発表した。 これは、当時彼が所属した医学の外科学会ではこの研究がオーストリアやアメリカ などの研究者により、すでに一、二年ほど前より始められていることを知り、 何とも悔しかったが研究の続行は諦めなかった。
 和賀井が超音波の研究を始めた頃は無給の外科の研究生だったので、アルバイトを しながら外科と超音波の勉強を続けていた。外科入局四年後に助手に任命され、 外科医局長を拝命したものの、初めて手にした月給はわずか四千円だったが大感激 したものである。
 この和賀井の創始期の研究成果が突然世界の舞台に登場することになった。それは、 1956(昭和31)年、アメリカ・ボストンで開催される第二回国際音響学会の 会長から米国滞在費用負担の条件で招待され、生まれて初めての外遊、国際会議 出席発表をしたことであった。だが当時の日本は貧しく、順天堂大学はもちろん 外務省も文部省も渡航費の面倒を見てくれない。当時の助手の給料では私費での 渡航費など考えも及ばなかった。そこで考えたのが、太平洋航路の貨物船の船医に なることだった。幸い飯野海運の貨客船「日光丸」が見つかり、会社の好意により 船医として乗船、学会開催の四十日も前に横浜港を出港した。
 船は太平洋を横断、ロサンゼルスのロングビーチ港からパナマ運河を通り、 大西洋に出て、ようやく横浜出帆四十五日後にニューヨーク港に到着した。外貨は わずかしか持っていなかった。これを見た飯野海運ニューヨーク支店長が、船医 給与の前借りという名目で二百ドルを貸してくれたのには大感激だった。
 この国際会議の出席発表を通じ、和賀井の超音波診断法研究が一躍世界の パイオニアとして注目されるようになった。この超音波診断研究はその後も日本国内 でも広がり、1961(昭和36)年、日本超音波医学会発足と同時に常任幹事、 さらに会長に就任したのを皮切りに、世界超音波医学学術連合会長、アジア超音波 医学連合会長などを勤め、世界の超音波医学界の文字通りの第一人者となった。 柳田邦男は「パッションと現実への意識、異分野の発想への関心」といっている。 初渡米の情熱は象徴的だし、最初に脳の診断を通じて「痛くない無害な診断法」を 編み出した執念、そして、外科の領域だけにとらわれず、いろいろな異分野との 交流を試みたことを指している。
 妻は仙台出身の葉子。間組仙台支店長の次女で尚絅女学院出身だ。彼の仙台意識 は筋金入りだ。彼が「超音波診断法事始」を書いたとき、東京の全日空ホテルで 出版記念会が開かれた。盛大なお祝いの中、「緊張してご挨拶していますので、 私の母校の仙台二中と旧制二高の校歌、凱歌を早く歌わないと落ち着かない」。 爆笑だったと二高尚志同窓会の会報が書いている。
 地道な努力で、ついに世界超音波医学学術連合の終身名誉会員第一号に輝いたの である。


略歴

1924(大正13)年、石巻市生まれ。
仙台二中四十二回卒、新潟医科大学医学部卒。
順天堂大学名誉教授。 
超音波医学者。
医学博士。
朝日賞、紫綬褒章、石巻市民功労者、勲三等瑞宝章。
川崎市在住。



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